ベルリンの壁がなくなった

ベルリンの壁がなくなった
1989年11月突然ベルリンの壁が壊されて。発端は、東ドイツの政府が、旅行の自由を保障することを発表したことである。当時、そんなことが起こるとは夢にも思っていなかったドイツのコール首相はポーランドを訪問していた。
ドイツとポーランドは数々の複雑な関係がある国だ。第二次世界大戦の発端は1939年のポーランド侵攻から始まる。
戦後ポーランドソ連支配下にあったが自由化運動が進みソ連支配下を出した時である。
数日間の首脳会談が予定されていたようだが、東ドイツの突然の変化を聞いて、コール首相は急遽帰独した。
ベルリンでは、大騒ぎが起こった。若者が壁の上に登り鶴嘴を振り上げて壁を壊し始めた。そういう人が次々に現れ壁が破壊されていく。もともとベルリンの壁東ドイツが一方的に築いたもので、西ドイツと交渉して境界線上に作ったものではない。
壁の西側の少しのスペースは東ドイツの領土で境界線に鉄の杭が打たれ形ばかりの境界線のしるしがあった。そこに近づいても東ドイツから撃たれる心配がないので西ドイツ側の壁には様々な絵や文字が書かれていた。
その夜多くの東ベルリンの人々が西ベルリンへやってきた。みんなにこにこ笑っている映像がテレビに映っている。西ドイツのレポーターが東から来た青年にマイクを向ける。
「これからどうするのか」と聞くと「今日は西ベルリンを見て、東の我が家に帰る。また西へ来るよ。」と言うのである。
壁がなくなっていらい東西の交流は盛んになった。
このようなドイツの変化の発端は、ライプチヒにあるニコライ教会で始まった「平和の祈り」からきていると言われている。
平和の祈祷に参加した人々は自由を求めるデモを始めた。1989年10月に、はそのデモは7万人に達し当局もどうしようもなくなったそうである。これが11月に旅行の自由を認める東ドイツ政府の方針に繋がっているのだろう。
1990年の春、数名の友人と、毎週月曜日に行われるデモを見ようとフランクフルトからライプチヒまで出かけた。途中で通貨の両替をすると、西ドイツのマルクは東ドイツのマルクの何倍にもなった。
ライプチヒで昼食を済ませ、自由化運動の出発点と言われる、ニコライ教会を訪ねた。
夕刻になると街のあちこちから人々が市庁舎前の広場に集まってくる。おお膳の警官が立っているが、まことに静かだ。
旗やプラカードもあまりない。シュプレヒコールも無い。そこに大勢の群衆が静かに集まって、やがて潮が引くように帰って行く。
これまで見たことのない、デモの光景だった。
帰りに、夕食を食べたが10マルクを両替して昼食を食べた残りでまだおつりが来た。